地獄変

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表紙
地獄変

堀川の大殿様のやうな方は、恐らく二人とはいらっしゃいますまい。

噂に聞きますと、御誕生になる時には、大威徳明王の御姿が、御母君の夢枕にお立ちになったとか…。

お邸の御規模を拝見致しましても、壮大と申しませうか、豪放と申しませうか。

到底私どもの凡庸には及ばない思ひ切った所があるやうでございます。

大殿様の御性行を始皇帝や煬帝に比べるものもございますが

それよりは、天下と共に楽しむとでも申しさうな御器量がございました。

それでございますから、二条大宮の百鬼夜行に御遇ひになっても、御障りがなかったのでございましょう。

東参上の河原院に夜な夜な現はれると云ふ噂のあった融の左大臣の霊さえ、大殿様のお叱りを受けては姿を消したのに相違ございますまい。

洛中の老若男女が大殿様と申しますと、権者の再来のやうに尊み合ひましたのも、無理はございません。

御車の牛が放たれて、通りかかった老人にけがをさせました時でさえ、その老人は手を合わせて有難がったと申す事でございます。

さような次第でございますから、大殿様御一代の間には、後々までも語り草になりますやうな事が随分沢山にございました。

大饗の引出物に白馬ばかりを三十頭、賜つた事もございますし

長良の橋の橋柱に御寵愛の童を立てた事もございますし…

が、

今では御家の重宝になって居ります地獄変の屏風の由来程、恐ろしい話はございますまい。

その御話を致しますには、地獄変の屏風を描きました、良秀と申す絵師の事を申し上げて置く必要がございませう。

良秀と申しましたら、その頃、右に出るものはあるまいと申された位、高名な絵師でございます。

大殿様の御邸へ参ります時には、よく丁字染の狩衣に揉烏帽子をかけて居りましたが

口の悪い誰彼は、良秀の立居振舞が猿のやうだとか申しまして、猿秀と云ふ諢名までつけた事がございました。

猿を一匹、献上したものがございまして、それに若殿様が、良秀と云ふ名を御つけになりました。

猿の容子が可笑しい所へ、かやうな名がついたのでございますから

面白半分に皆のものが、良秀、良秀と呼び立てては、いぢめたがるのでございます。

所が後日

柑子盗人め、待て、待て

恐れながら畜生でございます。どうか御勘弁遊ばしまし。

その猿は柑子盗人だぞ。何でかばふ

畜生でございますから……それに良秀と申しますと、父が御折檻を受けますやうで、どうも唯見ては居られませぬ。

さうか。

父親の命乞なら、枉まげて赦ゆるしてとらすとしよう。

その頃、大殿様の御邸には、良秀の一人娘が、小女房に上がって居りましたが、愛嬌のある娘で

早く女親に別れましたせゐか、思ひやりのある悧巧な生れつきで

御台様を始め外の女房たちにも、可愛がられて居たやうでございます。

娘とこの小猿との仲がよくなったのは、それからの事でございます。

娘は御姫様から頂戴した黄金の鈴を、真紅の紐に下げて、猿の頭へ懸けてやり

猿は又、滅多に娘のまはりを離れません。

娘の風邪の心地で、床に就きました時など……

かうなると、誰も小猿をいぢめるものはございません。

反って可愛がり始めて、若殿様でさへ、時々柿や栗を投げて御やりになったばかりか

誰やらが足蹴にした時なぞは、大層御立腹にもなったさうでございます。

その後

大殿様が良秀の娘に、猿を抱いて御前へ出るやうと御沙汰になったのも、この話を御聞きになってからだとか申しました。

娘の猿を可愛がる所由も御耳にはいったのでございませう。

孝行な奴ぢゃ。褒めてとらすぞ。

でございますから

大殿様が良秀の娘を御贔屓になったのは、色を御好みになった訳ではございません。

かやうな噂の立ちました起りも、無理のない所がございますが、それは又後になって御話し致しませう。

良秀の娘は、それ以来、猿と一緒になにかといとしがられまして

猿の方は、かやうに間もなく皆のものに可愛がられるやうになりましたが

良秀は相不変、陰へまはっては、猿秀呼りをされて居りました。

しかし、それも全く自業自得とでも、なすより外に致し方はございません。

吉祥天を描く時は、卑しい傀儡の顔を写しましたり

不動明王を描く時は、無頼の放免の姿を像りましたり

勿体ない真似を致しましたが、当人を詰りますと

良秀の描いた神仏が、良秀に冥罰を当てられるとは、異な事を聞くものぢゃ

天が下で、自分程の偉い人間はないと思ってゐた男でございます。

絵でさへ、筆使ひでも彩色でも、外の絵師とは違って居りましたから、妙な評判だけしか伝はりません。

五趣生死の絵に致しましても、天人の嘆息をつく音や啜り泣きをする声が聞えたとか

死人の臭気を嗅いだとか

似絵なども、写されたゞけの人間は、三年と尽たない中に、皆魂の抜けたやうな病気になって、死んだと申すではございませんか。

何時ぞや、大殿様が御冗談に

その方は兎角、醜いものが好きと見える。

と仰有った時

さやうでござりまする。かいなでの絵師には、総じて醜いものゝ美しさなどと申す事は、わからう筈がございませぬ。

と、横柄に御答へ申し上げました。

よくも大殿様の御前へ出て、そのやうな高言を

何とも云ひやうのない、横道者……

しかしこの良秀にさへ、たった一つ人間らしい、情愛のある所がございました。

娘の着る物とか、髪飾りとかの事と申しますと、金銭には惜し気もなく整へてやると云ふのでございます。

どこの御寺の勧進にも、喜捨をした事のないあの男が……

やがてよい聟をとらうなどと申す事は、夢にも考へて居りません。

でございますから、娘が大殿様の御声がゝりで、小女房に上りました時も、苦り切ってばかり居りました。

噂は、かやうな容子を見たものゝ当推量から出たのでございませう。

尤も噂は嘘でございましても、良秀が始終、娘の下るやうに祈って居りましたのは確でございます。

童の顔を写して、見事な出来。褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。

何卒、私の娘をば御下げ下さいまするやうに。

仕へてゐるのを、無躾に御暇を願ひますものが、どこの国に居りませう。

……それはならぬ。

かやうな事が、前後四五遍もございましたらうか。

大殿様の良秀を御覧になる眼は、冷やかになっていらしつたやうで

娘の方は、父親の身が案じられるせゐでゞもございますか、曹司へ下ってゐる時などは、よく袿の袖を噛んで泣いて居りました。

そこで噂が愈ゝ、拡がるやうになったのでございませう。

それは兎も角、娘の事から良秀の御覚えが大分悪くなって来た時

大殿様は突然、良秀を御召になって、地獄変の屏風を描くやうにと、御云ひつけなさいました。

地獄変の屏風

云はゞこの絵の地獄は、本朝第一の絵師、良秀が墜ちて行く地獄だったのでございます。

良秀はそれから五六箇月の間、屏風の絵にばかりかかって居りました。

御邸へも伺はず

娘の顔も見ず

昼も夜も一間に閉ぢこもったきり

仕事にとりかゝりますと、狐でも憑ついたやうに……

地獄変の屏風を描いた時、夢中になり方は甚しかったやうでございます。

己は少し午睡をしようと思ふ。

が、どうもこの頃は夢見が悪い。

就いては、己が午睡をしてゐる間中、枕もとに坐ってゐて貰ひたいのだが。

なに、己に、己に、来いと

云ふのだな、どこへ、来い、奈落へ来い、炎熱地獄へ来い、誰だ、さう云ふ貴様は

貴様は誰だ、誰だ、と思ったら、うん、貴様だな、己も貴様だらうと思つてゐた

なに、迎へに来たと、だから来い、奈落へ来い、奈落へ、奈落には、奈落には己の娘が待つてゐる。

待ってゐるから、この車へ乗って来い、この車へ乗って、奈落へ、来、い、い。

……

師匠

もう好いから、あちらへ行ってくれ

その後、一月ばかりたってから、今度は別の弟子が奥へ呼ばれ……

御苦労だが、又裸になつて貰はうか。

(写しだな)

……わしは鎖で縛られた人間が見たいと思ふのだが、気の毒でも暫くの間、わしのする通りになってゐてはくれまいか。

(殺される……)

蛇、蛇が

おのれ故に一筆を仕損じたぞ

十三四の弟子も、地獄変の屏風のおかげで恐ろしい目に出遇ひました。

見た事がない怪鳥に襲はれるよりも身の毛がよだったのは、冷然と有様を写してゐた良秀の魂胆。

地獄変の屏風絵を描けと云ふ御沙汰があったのは、秋の初でございます。

その冬の末--

良秀は何か屏風の絵で、自由にならない事が出来たのでございませう。

下絵が八分通り出来上つた儘、更に捗る模様はございません。

いや、どうかすると

……

今までに描いた所さへ、塗り消してもしまひ兼ねない気色なのでございます。

その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。

前の出来事に懲りてゐる弟子たちは、近づかない算段をして居りましたから。

あの強情な老爺が、何故か妙に涙脆もろくなって、人のゐない所では時々独りで泣いてゐた……

(師匠)

(眼が、涙で一ぱいに?)

又一方では、娘が何故かだんだん気鬱になって、涙を堪へてゐる容子が眼に立って参りました。

初は、父思ひのせゐだの、恋煩ひをしてゐるからだの、臆測を致したものがございますが

中頃から、大殿様が御意に従はせようとしていらっしゃるのだと云ふ評判が立ち始めて

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